تسجيل الدخول『お帰りはいつになりますか?』
──今日はいつ頃帰るか訊ねて、夕食時にでも言いましょう。『明日は何時頃に帰りますか?』 ──今日言えなかったら、明日。じゃあ何時頃のお帰りになるかしら?『明日は何時ごろに寝ますか?』 ──もしも言えなかったら……流石に結婚記念日前日には言いましょう。寝る前とか。『記念日の夜は?』 ──寝る前にも言えなかったわ。じゃあ記念日の夜、寝る前に言いましょう。(いつ俺に離婚を言い出そうかと、悩んでいる……?)
『イアン──私と離婚して下さい』(あの美しい声音で言われるんだ。残酷過ぎる……! ……この三年間と三百六十三日で、俺はオリヴィアの心の憩いの場所になる事は出来なかったのか。オリヴィアを俺から解放してあげた方がむしろ幸せなのか……?)※ ──ドンドンドン!! 七年前の過去を思い出しながら、アンはオリヴィアが寝ているだろうイアンの寝室のドアを激しくノックした。 七年前に目撃した光景のようにシーツに包まって震えているかもしれない──そう思うと息が上手くできず息苦しさを覚えた。いっそ、この息の根をオリヴィア様に止めてもらいたい。オリヴィア様をまた守れなかった私は彼女に殺されるべきだ。「オリヴィア様!! ご無事ですか!? あのクソ男に手籠めにされたと聞いて、私は、私はっ……!」 泣いている場合じゃないのに涙が溢れた。必死になって袖で拭くのに自分の意思とは反対に一向にやんでくれない。 ドアノブを回すと鍵がかかっているようで、アンはガチャガチャと回した。「アン!」 声が聞こえて、アンは安堵した。意識はあるようだ。「オリヴィア様の元へ今から行きますから」「アン、落ち着いて。私はなんともないから!」 まだ、あの男を庇うのか──。なんてお優しい。 アンは恋を知らない。オリヴィアに対する忠誠心だけで生きてきた彼女に恋をする暇がなかったと言えばなかったのだが、決して騎士仲間同士でも美人の部類に入る彼女はモテないわけではなかった。しかし理想が高い彼女は自分より弱い男に興味が湧かず、三十一年生きてきた。「エレンから行かないように言われなかったの?」「言われました。しかし、私は使用人達の話を聞いてしまったのです。オリヴィア様があの男から手籠めにされたと聞きました」 使用人達はそんな事一言も言っていないのだが……アンの脳内でそう変換されてしまっている。「手籠めなんてされていないわ」「グスッ、うっ、うぅっ……お辛かったでしょう……」「アン? 泣いているの?」 泣きじゃくるアンに面食らったオリヴィアは「泣かないで」「私はなんともないから」と慰める言葉を室内からアンに伝える。その優しさにもっとアンは嗚咽を溢した。「ここを開けて下さい。手当しな
アンの実家は帝国から遠くにある辺境の地だ。首都からどんなに馬を走らせても早くて二週間はかかる場所だ。 大昔、帝国の皇女が恋に落ちた騎士が居た。二人は身分の差があったものの、想い合っていたとされる。騎士は彼女を手に入れる為、数多くの武勲を挙げ遂には認められて、この地を皇帝から受け賜り、それから皇女は騎士の元へ降嫁した。以来アスコット家はこの土地を治め良き領主として、代々騎士の家系として繁栄し続けた。現在は二人の子孫であるアスコット家長女、アンの母親ジェレミアが領主として治めている。そこへ皇帝が邪険にしていた腹違いの弟、キースを遠くに行かせたいが為に皇帝の命で婿にさせた。 政略結婚だったが皇帝の思いとは裏腹に二人の仲は良好だった。曲がった事が嫌いで男勝りなジェレミアに思慮深いキースは意外とマッチした。だから愛し合った末に子供が五人、誕生している。 その実家へ足を踏み入れると、最初目にしたものにアンは唖然とした。危篤だと知らされていた父親が手紙を送った三歳年上の兄と元気に剣の稽古をしていたからだ。話を聞けば、そんな手紙を送っていないと言われ、アンは青褪める。胸騒ぎを抱えたまま飲まず食わずで馬を走らせても、二日早く着いただけだった。結果二十六日も留守にしてしまった。「オリヴィア皇女!!」 小屋に足を踏み入れるとオリヴィア様の姿はなかった。小屋を出た際にあった飲みかけのカップが置かれていて、虫が浮いている。それからテーブルの上には元凶の手紙と封筒があった。手に取ってアスコット家の家紋の入った蝋封をよく見れば精密に作られた偽物だった。剣二本を交差した中央に描かれた鷹に爪が一本足りない。右下がりの癖まで兄の筆跡と同じなのに、これは偽物だ。 小屋を出て城内を探し回る。四姉妹の元にもオリヴィアはおらず、行き先を訊ねても答えるわけがない。ただ、オリヴィアと同じ年の第四皇女だけが愉悦に口元を歪めていて、それが異様に不気味だった。 最後に踏み入れたのは皇帝の寝室がある王宮だった。部屋に近付けば近付くほど、泣き声と叫び声が聞こえる。オリヴィア皇女と名を呼ぶと「助けて」とアンの名前とともに助けを求められる声が耳に入った。剣を抜き、寝室へ向かう途中の
アンは二人が結婚して同居した初日、同じベッドで寝ている姿を目撃して祖父から譲り受けた短剣を枕に刺したのは昨日のことのように思い出せる。 正直一緒に寝ることは今でも反対している。しかし、オリヴィアから 『お母様がいた頃のように誰かと同じベッドで寝たい』 『アンは寝てくれないでしょう?』 と言われて、最終的にアンが折れた。 『命に関わらない』 だろう……。しかし、貞操の危機はある。 万が一の場合、アンは常に動けるように就寝時でも短剣を枕の下に隠していたし、叫び声が聞こえたらすぐにでも動けるように寝着は動きやすいものを選んでいる。 だが、この数年間奇跡的に何もなかった。イアンという男はオリヴィアを好きだと言ってはいるものの、手を出す気配はない。 (無駄に筋肉を鍛えているわけではないな) アンは男の機微に疎かった。だから、イアンがどれほど耐えているかなんぞ想像ができないのである。だから、オリヴィアがイアンとくっ付いて寝ている事に対して、ただ『鍛えている男は違うな』という感想しか抱いていなかった。イアンの努力の賜物だと考えた事がない。そういう彼女だから、夫婦の寝室とイアンの部屋が夫婦の営みの音が漏れないように作られていることなんぞ知りもしなかった。 アンが真実を知るのは二十分後。食堂の前を通過しようとした時である。 離婚の準備に新しいドレスを新調すると良いかもしれない。あの男から慰謝料もぶんどって──とか考えながらスキップして廊下を歩いていると、『奥様』という単語が耳に入って彼女は咄嗟に壁に背をつけて立ち、盗み聞きをする。 『奥様と旦那様が遂に結ばれたのね』 キャ~というメイドの悲鳴。語尾にハートマークがついていてアンが顔を顰めた。 (結ばれた、とは……?) 『やっと奥様に手を出されたんですね~。見ていてやきもきしてましたもん』 『奥様もやっとご自分の気持ちに気付いたんですね』 『愛された跡を見られたくない、って奥様が言ったんですって。きっと、初夜は激しかったんだわ』 キャ~と色めき
※ アンはオリヴィアを起こす為に、彼女の部屋のドアをノックするも反応がない。ゆっくりとドアを開けると姿がなかった。昨夜、オリヴィアがイアンへ謝罪に向かってから戻ってきていないようだ。 (仲直りしたか) アンはチッと舌打ちをした。 今度はオリヴィアの部屋と繋がった夫婦の寝室のドアを叩くと反応がない。寝台はもぬけの殻でシーツに乱れがなかった。 (あの男の部屋に行ったっきりか……?) そして、夫婦の寝室に繋がったイアンの部屋の扉をノックしようとしたら、名前を呼ばれて手を止めた。声がした方に視線を送るとエレンだった。 「奥様がしばらくは一人にして欲しいって言ってたわ」 「一人に? なぜです?」 「昨日、旦那様とお話しされて色々考えたいんですって」 「ついに離婚ですか?」 やった、とアンは笑顔になった。エレンの顰め面なんて見てもいなかったし「違うわよ」という否定の言葉も聞いていない。 「と、とにかく! 部屋に行ってはダメよ!」 エレンからギュッと手を握られ念押しされているものの、アンは返事だけして全く聞いていなかった。彼女の頭の中は『オリヴィア様とあの男が離婚する』という事でいっぱいだった。 「人の話を聞いてる!?」 グイッと顔を覗き込まれ、エレンの手を払い今度は自分が彼女の手を握り締め、己に引き寄せた。 スラッと背が高く、中性的な顔をしているアンから顔を近付けられて同性にも関わらずエレンはドギマギしてしまう。しかも、 「エレン、ちゃんと聞いてます」 女性にしては低音で、耳元で囁かれ顔が一気に熱くなった。先ほど、オリヴィアの『愛された跡』というのを同時に思い出してしまって余計に顔が火照ってしまった。 「お嬢様が考えるお時間を邪魔しません」 エレンはアンを何度も振り返って、「ぜ、ぜったいにそっとしとくのよ……!」と念を押しながらその場を後にした。 アンは笑顔のまま手を振って見送る。彼女が廊下を曲がったのを見届けて「よっしゃーーーー!!」とガッツポーズ。 「オリヴィア様は
自分の顔を両手で挟んでオリヴィアは叫び声を上げた。 鏡に映るオリヴィアは六歳の頃のオリヴィアだった。あんぐりと口をあけたまま、夢かと思って自分のお腹を抓ってみたが……痛い。と言ってもさっき顔を強打した時に夢ではないと立証済みである。 「うぇぇえぇぇぇぇぇぇぇ???」 (好きな人と一つになったら、若返るって効果があるの?) 「こんな姿でイアンにキスしたら、イアンが捕まっちゃうわね……」 「──奥様」と扉をコンコンと叩く音でオリヴィアはピョンと跳ね上がった。慌てて寝台へ戻り、シーツへ潜る。 「叫び声が聞こえましたが、どうされました?」 「エレン……だ、大丈夫、ベッドから寝ぼけて落ちたの!」 メイドのエレンだ。心配そうな声音で扉の前に彼女は立っていた。 「ケガはされていませんか? 救急箱をお持ちしましょうか?」 「だ、大丈夫よ! 痛くないから……!」 と言えばエレンは「しかし……そんな叫び声ではありませんでした」と食い下がらない。 「あ、あ、あの、お腹がちょっとだけ、痛くて」 「ではお腹を温める物をお持ちしましょう」 まずい。 この姿を見られたら、誰か分からずに追い出されてしまう。 「そ、その、痛いって言うのは、病気じゃなくて、その、イアンと、昨夜、あれを、したからなの! あれっていうのは、交わりね!!」 他人に言うとなると恥ずかしく、全身カァーと赤くなってしまう。 「奥様のお身体を考えず激しめにされたんですね?」 信じられない、と軽蔑の声が上がってオリヴィアは心中でイアンに謝罪した。昨夜の彼はとても優しかった。誤解を解こうと口を開いたものの、それを告げるには少々ばかり遅かったようである。 「あんなデカい身体で向かってこられたら、お腹痛いで済む筈ありませんわ。そんな奥様を一人放って置いてお勤めに出て行かれるなんて夫失格です。身を清めるお風呂の準備と医者の手配を致します」 「医者!?」 (大袈裟じゃない!?) ドアの前を去ろうとするエレンをオリヴィアは呼び止めた。この姿でみんなの前に
※ 「うん……」 オリヴィアは目を擦りながら、重たい瞼を持ち上げて目を覚ました。カーテンから漏れる光は明るみがあって、陽が差し始めたようだ。 キョロキョロと見回すとイアンの姿がない。いつもなら隣で寝ているのに。居た筈の場所に触れると冷たくなっていてオリヴィアは寂しそうに俯いた。 「初めてしたあとに居なくなるなんて、ひどいわ」 拗ねたようにプゥと頬を膨らませる。しかし、ベッド端に置かれたワゴンの上のケーキ皿が空になっていて、オリヴィアは目を輝かせた。 「食べてくれたんだわ……」 ベッドから起き上がることはせず、腹ばいでワゴンへ近付く。きっとアンが居たら行儀が悪いって注意されるだろうけど、今はアンは居ないからいくらしたって怒られない。 ケーキ皿を覗くとメモに気付いて、オリヴィアは手に取った。 『おはよう。 ヴィーにたくさんキスをしたいから予定より早めに切り上げる為に少し早いが仕事へ出かける。 今日も愛してるよ。 イアンより』 「フフッ」と顔を綻ばせ、オリヴィアは転がりながらベッドの中央に戻る。起きる時間にしてはいつもより早いが、眠気はもう残っていない。それでも起き上がるのが面倒なオリヴィアはゴロゴロとベッドに転がったまま、イアンが帰宅したら彼に飛び付いて、私からキスをしようと計画を立てた。きっと驚くはず。 その表情を思い浮かべてニヤニヤする。 それから、うーんと寝転んだまま背伸びをした。 (とっても、身体が軽いわ) 腰も痛くない。 飛べそうなくらい身体が軽い。 (イアンと気持ちが通じ合って、心が軽くなったからね) それが、身体に直結しているのね、と結論付けた。 「喉の調子も良い」 すっきりしている。いつもより声が高いような気もする。 「好きな人と繋がるって、身体に変化をもたらすのね……」 夜の情事を思い出して、赤くなる。イアンの声は低いとは知っていたけど、耳元で聞くと、その低音があんなに響くなんて知らなかった……。







